40代の悩みに効く物語

「児童養護施設で育った俺がマンガ家になるまでの(おおよそ)8760日」ー理不尽さの中に愛を見つけることができるか

本作「児童養護施設で育った俺がマンガ家になるまでの(おおよそ)8760日」は著者永田晃一が自らの児童養護施設で育った経験をマンガにした作品だ。

この本で、読者である私に問われたのは次のような「問い」は「あなたは、フルボッコの中に愛を見つけることができますか?」ちょっと言葉を換えれば「理不尽な社会の中で愛を見つけることができますか?」ということだ。

本作のテーマと児童養護施設

永田氏は、昭和53年、4歳の時から中学を卒業する15歳までを児童養護施設で育ったという。自分の下の子どもが4歳になったのを機にこの漫画を描いた。そこには次の2つの思いがあった。

①「『あそこで暮らした日々は、俺にとって何か意味のある事だったのだろうか?』っていう自分の中にずっとある漠然とした気持ち」を整理したい。

②「今施設で暮らしている子供たちに少しでも勇気や希望を与えられるもの」にしたい。

つまり、このマンガの第一の読者は「自分」であり、第二の読者は今施設で暮らしている子供たちなのだ。

意外となかった筆者の実体験「養護施設」物語
児童養護施設を舞台としたマンガと言えば、このマンガの中でもちょっと触れられていますが、松本大洋氏の「Sunny」という名作があります。

まぁ言っておいて難ですが、私は読んだことありませんでしたが(笑)なので読みました。はい。

めちゃめちゃおもしろかったです。1巻しか読んでませんがね。「Sunny」とは日産の車の名前です。壊れて動かない車サニーが児童養護施設の子供たちの遊び場になっているんですね。この動かない車は「施設から脱出したいけれどできない」象徴として描かれているんです。

車を運転して「家族が待つ家に帰りたい」と思い描くけど、現実は車は動かないし、帰る家や待っている家族もいない。

松本大洋氏と言えば、窪塚洋介さん主演で映画にもなった「ピンポン」ですね。あの独特の絵柄と世界観、慣れないと読みにくいかもですが…ぜひ読んでおきたい名作です。

あらすじ

それでは、ざっと1巻のお話を紹介する(多少ネタばれです~)。コーイチには母親は離婚していなく、子どもを経済的に育てられない父親との3人家族。父親はどこか遠くへ仕事へ行っているとのこと。

施設は幼稚園児から中学生まで60名もの子どもたちがいて、その子どもたちと共に生活する先生が数名でてくる。

1話完結型で施設での日常の生活について描かれている。ざーっと各回の内容並べるとこんなとこ。タイトルは私が勝手につけました。

【友達など子供たちについて描いた回】
・第1話 小学生にフルボッコにされる話
・第5話 友達が喜んで退寮する話
・第6話 友達が望まない退寮をする話
・第13話 中学生にフルボッコされる話
・第14話 中学生にフルボッコされる話その2

【自分自身のことを中心に描いた回】
・第2話 夜が怖いって話
・第3話 捨て猫と自分を重ねる話
・第7話 連帯責任の話
・第8話 嫌いなものを食べる話
・第12話 小学校で暴れていた話

【大人たちのことについて描いた回】
・第4話 先生にフルボッコされる話
・第9話 調理師さんの話

【非日常の出来事の回】
・第10話 海水浴旅行の話
・第11話 お正月の話

はい、だいたい「フルボッコ」される話である。

寮で騒いでいたらうるさいと小学生にフルボッコされ、先生に生意気な口きいたらフルボッコされ、同室になった中学生に色々因縁つけられフルボッコされるという感じ。

そもそも施設に送られた時点で、親から精神的にフルボッコにされたわけですね。

大人の都合でふりまわされる子どもたちを描く

「フルボッコ」の中身は何かといえば…「大人の都合でふりまわされる子どもたちの姿」だ。

児童養護施設は、こういったら言い過ぎかもしれませんが、「大人の都合で子どもを預けて」「大人の都合で子どもを迎えに来る」場所なのだ。

だから松本大洋の「sunny」でも「車」が象徴として描かれている。本書でも、「第5話 友達が喜んで退寮する話」で友達のヨシユキが、母親から車で迎えに来てもらい退寮する姿が描かれている。「第6話 友達が望まない退寮をする話」ではもっとひどく、友達のムネアキが虐待する父親の元から施設に入るが、また虐待する父親の元へ帰っていく。

施設の子どもたちは、「生活の場所」「誰と住むか」を大人の都合で決められてしまうのだ。

施設に限らず皆さんが身近な経験としてきっと共感できる話もある。「第10話 海水浴の話」「第11話 お正月の話」です。非日常の特別な日だけに許された「好きなものを買える」「遅くまで起きてていい」という大人から与えられたルールだ。

これも小さいことですが、大人の都合に子どもが合わせている例でしょう。私自身も親なのでよくわかります…「親たちで宅飲している時は、子どもたちも夜おかし食べていい、遅く寝てもいい」「親の気分次第で怒ったり怒らなかったり」まぁあるあるだ。。

大人たちの愛や、哀愁ある姿を描く

ただし、本書は、大人の都合に振り回される理不尽さだけを先鋭的に描いたものではない。それもやろうと思えばできたはずだがしなかった。それは「今、施設で生活している子供達に少しでも勇気や希望を与えられるものにする」という本書の方針があったからだ。

本書では、理不尽な大人だけではなく、大人たちの愛や哀愁ある姿が描かれている。

私が一番ぐっと来たのは「第9話 調理師さんの話」です。調理師さんとは、ターザンと呼ばれる推定60~70歳くらいの足の悪いおばあちゃんのこと。

そのターザンが出す、残り物のご飯を醤油で炒めた「イタメ」という料理を象徴として思い出がよみがえる。

ちょっと長いですが、引用させてください。

ターザンは 一日の仕事が終わるとどこに出かけるわけでもなく 自分の部屋の前の真っ暗な廊下で 毎日テレビを観て過ごしていた…

寒い日も暑い日もそうでない日も…きっと唯一の娯楽が彼女にとってテレビだったのだろう…

犬猿の仲の俺達がそんな事を聞けるはずもなかった…

家族はいるのか…

子供はいるのか…

どうしてこの施設で働く事になったのか…

それを知る術はもうどこにもない…

理不尽さにふりまわされていたのは、子どもたちだけではない…そのことが描かれているのです。

ターザンは この施設に住み込みで働いていた…「帰る家はないのか?」

ターザンも、おそらく「ここにしか居場所がない」人だった、楽しみも「テレビしかない」人だった。施設に預けられた子どもたちとどれほど違うと言うのだろうか。

他にも職員さん達のエピソードはいくつか描かれています。そこには、理不尽さの中にも、「大人の愛」があったことが描かれている。

「第11話 お正月の話」では、職員が正月に子どもたちを凧揚げに連れて行ったことで実子から「お父さんは、寮の子どもたちと僕どっちが大事なの?」と言われたというエピソードを、作者が大人になってから聞いた話が描かれている。

これら大人のことは、作者が「大人になって気づいたこと」として描かれています。当時はわからなかったけど、振り返れば…わかることがある。

そこに、今施設にいる子どもたちの希望があるのではないでしょうか。今はわからないけど、確かにそこに愛はあったし、理不尽さの象徴だった大人たちも様々な事情を抱えていたのだと。

「理不尽な社会の中で愛を見つけることができますか?」
施設の子どもたちの話は、大人の都合に振り回される理不尽さが激しくでます。ただ、世の中の理不尽さに振り回されているのは、ほかの子どもたちもそうだし、なんなら大人もそうだと。

だから、本書で施設の子どもたちの姿を読んで、その立場になったことはないけど、ちょっとわかるという気持ちになるのではないだろうか。

そのように考えると、この本から私が学んだことは

・社会の1人として、人に理不尽な思いをさせている自覚はあるのか?
・自分が理不尽な目にあっても、その中に人の愛を感じることができるのか?

ということだ。

理不尽な目にあっている時には感じることはできなくても振り替えると確かにそこには愛があったし、理不尽に見えた人にも色々と抱えているものがあるのです。

筆者があとがきで「誰にも幸せになる権利がある」と書いている。その「幸せ」とは、現状をどう捉えるのか、その自分の気持ちの持ちようかもしれない。